南濱墓地 墓石調査 Eブロック

まずは配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。



   この列には木の陰になっていますが墓地で最も大きな墓石(石碑?)があります。
   ただ、それが誰のものなのか、かすかに残る文字が読み取れません。


   右から順に
E-1  敷石だけが残っています。
E-2  風化剥落が進み正面の ●●空盛信士 だけが読めます。
E-3  真っ二つに割れているのが「冨●梅芳●」右半分は読めません。
    左側面には 冨嶌●右●●   同 妻
          妻と書かれた墓を始めてみました。
E-4  正面    富島月窓了光居士之墓
   裏面    行年六十有六
         天明三癸卯年(1783)
         八月十日卒


E-4  正面   富島月窓了光居士之墓
   裏面    行年六十有六
         天明三癸卯年(1783)
         八月十日卒
E-5  今にも崩れそうな墓石
   正面    富嶋●●●●
   裏面    ほとんど剥落し2行のうち  ●七(年)
                           ●七●
E-6 そのさらに左側には「富嶋瑞峰林品之墓《があります。
      富嶋瑞峰を検索すると 「コトバンク」では
         寛永8年生まれ。摂津西成郡(大阪府)三番村の村役人。
         寛永三筆のひとり松花堂昭乗(しょうかどう-しょうじょう)の弟子藤田友閑(ゆうかん)にまなんだ。
         宝永8年3月12日死去。81歳。名は林品。通称は左近右衛門。号は友雲翁。
      「浪華人物誌巻一」では
         初め左近右衛門と称す摂州南中島三番村の人藤田友閑(松花堂上足弟子)に従学し
         能く其法を得たり筆力松花堂門人の上に出つと云晩に友雲翁と号す正徳元年辛卯三月十二日(1711)
         没す濱村墓地に葬る
      左側面には長文の碑文があり「近畿墓跡考」では
         富島林品者。家世居攝西成郡南中州三番里。字瑞峯
         稱曰左近右衛門性公正実直当為里●。所属民。
         有諂而賄者罰。其節操介立。多類之。後選挙吏。
         上以私害公。同列畏之。既而退老。自髠髪。別号友雲翁。
         本効松花堂書法。以●墨常楽。人或索。則灑然一揮之。
         衆莫上稱賞。時或與方外之徒交。上為其所絆。
         従容自得。以快平生耳。行年八十一。終干正徳元辛卯年
         三月十二日也。茲考其風列。謹紀之以勒墓上云。
         旹
         享保十九年(1734)甲寅三月吉日       亡くなってから23年も経っています。なぜ?
         孝孫富島喜内寄長粛拜立          なぜ子供ではなく孫が?


    右下が E-6 黒く汚れた墓が E-7 です。
    E-7の右に小さな台座だけが2つあります。整理で余った台座を仮に置いてそのままになったのでしょう。
    その台座の1つには 茨木屋平七 とあります。


E-7  墓地で最も大きな墓石(上部に地蔵、下部に蓮華がある)ですが、明らかに台石が小さすぎます。
   本来の台石は行方不明。
   一体誰の墓なのでしょうか?それとも記念碑?


   E-7 の足元にはいろいろなものが転がっています。
   丸い石は何だったのでしょう? 花立にしては太すぎます。
   その奥には墓石らしきものが埋っており
   さらに奥には手のかかった台座が見えますが、墓石ではありません。(小さすぎる)


   この3つは富嶋一族です。右から順に
E-8   正面   冨嶋道賢宗悟●士●
     裏面  ほとんど剥落し左上の 七月 の2文字のみ読める。
E-9   正面   心覚智法信女之墓
     裏面  行年五十有四 寛延元年十月廿一日卒(1748)
E-10   正面  月海了照大姉●霊位
     裏面  行年五十歳  冨島氏之霊
E-11 左に立掛けてある石
     正面  ●●●●●
          ●●●●童女
          ●●●●●

   富嶋と聞いて中津にある「富嶋神社」を連想する人は奇特な人です。祝変人。
   確かに富嶋一族は三番村に住んでいたので濱村の北側なので現在の富島神社も近いです。
   ですが、富島神社の名前になったのは明治43年のことなので、つぎの妄想をしてみました。
   明治中頃の淀川改修によって三番村は新淀川の底に消えた。
   この工事は1910年(明治43)に完成しているので、三番村村民はどこへ?
   この移転で富嶋一族は濱村に移転し、富島神社の前身に多大な寄付をしたのでは?
   それで神社名を富島神社にしたのではないか?

   実は現在の富島一族の墓は南濱墓地の北墓地にあります。
   なぜ、南墓地の墓が無縁となっているかはわかりません。


   竿石がなくなったり、五輪塔の頭だけ残ったり、竿石がスッポリ埋ったり、散々です。
   右から順に
E-13  正面   誉浄利了因信尼
    裏面   寛政九年丁巳●●(1797)
E-14  正面   ●西子●●●
         妙空信女
E-15  正面   安永二癸巳年(1773)
         観誉察全法子       法子は亡くなった僧侶につける戒名です。
         二月廿六日
    右側面  ?????


   「綾勇又治郎墓」の台座には「杦浦すぎうら」という屋号があります。
   明治24年の建立なのに無縁墓になっています。


   右から順に
E-25   正面  寳妙院●●●●●
E-26   正面  相屋浄頚信士
         圓月妙頚信士
E-27   正面  ●徳四甲午稔(1714)
         ●明聯信女霊●
         二月二十六日(三月かも)
E-28   正面  道雪居士●
     右側面 寶永八辛卯年 三月十二日(1711)